試行錯誤

いろいろ試して、その結果を振り返ります

A5サイズのノート / 何かを学ぶ・取り入れる方法

最近、営業職として配属されました

何であっても、新しいことが始まるというのはとてもときめく
何かが無くなる・終わるということは、その分のスペース(空容量)が生まれるということ

それを無駄に使いたくない。余地がある分、惰性で何かが入り込んできやすい

わたしはA5のノートがすきです。会社ではPCのソフト、iPadiPhoneのアプリを使って日報や情報共有をする必要があります。でも大切なこと・消化して自分のものにすべきものは一度紙にペンで書きたい

二次元に手書きで情報を載せると、自分のいままでの知識や経験が結びつこうとする
有機結合に似ている
媒体としての見開きA4の紙・黒と青ボールペン


わたしは停滞したくない、常に変わっていきたい。自分の中に何かを蓄積させたくない。何かを取り入れるときには、自分のフィルターを通して形を変えて、自分の一部にしたい

形を変えるためには、自分の身体を使ったアナログな方法がわたしにとってはいちばん効率的なようです

定年まで彼が上を目指し続けるとして / 性質と役割とそれぞれの成熟

22〜25歳で入社して60歳まで、35年間働くとして、彼がどのポジションまで登れるか
現在、目指している/いないを別として、性質として多かれ少なかれフィックスしている、と思う


村長と、村人Aと、村人B/C/D…は、それぞれの役割の中でのレベルアップは努力によってできる
ただ、役割を越えることができるかは、性質によるところも大きい


熱意と ある種の愛を持って自身がコミットしながら周りの人間を巻き込んでいけるひとは村人の中で信頼された状態で協働的リーダーになれる

言葉や行動に大きな影響力を携えてドンと構えて、周りに影響されずに継続的に成果を出せるひとは大きな裁量を与えられて指示者として信頼される

実施者としてのリーダーと、計画立案をするリーダーは、結構、違う



そういうふうに、同期を見る。好き嫌いではなく、他人を知るひとつの方法として
この人が頑張ったら、どういうところで活躍するかしら、どういう人たちの応援をもらえるかしら



自分はどう見えているか
自分の性質を活かしてレベルアップする、あるいは、枠を越えるには、どういうタイミングで成果を出し、どういう人たちと、どう関わっていくか。見えてくるものがある



村長=計画立案・マネジメント
村人A=計画実施責任者
村人B/C/D…=実施者

計画を実現させるためには全員必要

原因療法と対症療法 / 本質と現象


本質と現象の関係は、原因療法と対症療法に似ている。


原因療法
病気そのものの真の原因となっているものを治したり取り除くことなど直接働きかけることで治す

対症療法
病気そのものの原因を取り除くのではなく、病気がもたらす症状や苦痛を軽減することを目的とする治療法

(あと補充療法・予防療法がある)


感染症になったときに、細菌を殺すの(抗生物質)は原因療法。

花粉症のときにくしゃみを止める(抗ヒスタミン薬)のは対症療法。(ヒスタミンを受け取る部分にフタがされるからくしゃみは出ないけど、ヒスタミンは出てるし、抗原をやっつけてるわけではない)

ガンで言ったら摘出は原因療法、モルヒネは対症療法


原因療法は一部を治すために身体全体に不要な負担をかけることも多いし、対症療法も柔軟に使っていくべきだけど、バランスは見極めなくてはならない。

身体全体に回って手遅れになる前に根絶させなきゃいけないやつもあるし、ちょっと我慢すれば自分自身の免疫でなんとかなるやつもある(なるべくその方がいい)。


なにか問題が起こっているときに、本質にアプローチするか、現象にアプローチするか、と似ていると思う。


憲法改正というのは国の方向性の問題について、本質へのアプローチだから、ハイリスクハイリターンだし、全体への影響が生まれる。
でも、対症療法で凌ごうとして 法律が増えすぎている、し、凌げたことに調子に乗って 国外への責任を拡げすぎているからこそ、その決断の影響は大きくなっている。


予後不良になる確率が上がっている。


過去のことはもう仕方ないから成人を業界のバランスとりながら10%ずつに分けて、毎月10%ずつ仕事休ませて、国の現状について勉強してテストさせて(点によって下限10万上限40万とか渡す制度にでもして)、それで来年の5月3日にでも直接民主制で改正すればいいと思う


本質について/ミース・ファン・デル・ローエ

この世で最も美しいと思うのは、レイクショア アパートメントという建物です

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わたしはミース・ファン・デル・ローエというひとの建築哲学を愛している
 
モノを持ちたくないのも、本当に大切なものを自覚したいのも、そのひとの影響


LESS IS MORE
God is in the details
彼のつくった全ての建築物から一貫して感じられる。建築物たちは似ているわけではなく、用途や国に合わせた引き算とこだわりがある。無駄がないのに、豊かで美しい


「形はわれわれの目的ではなく結果として出てくるものである。形それ自身単独では存在しない。形が目的であるということは形式主義である。」
(1923 建築と形に警告  より)


「建築とはその時代の要求を空間に翻訳することである。」
「建築の本質を疑問視することは決定的に重要なことである。」
(1924 建築とその時代  より)



すべてのことに当てはまると思う。物事の本質を捉えることは難しいけれど、本質に近いところに課題を見つけることができたら、その解決はより広い範囲に影響する。
形式主義というのは、応用が効かない


仕事の違いは、要求を何に翻訳するかの違いと言える
たとえば医療は、時代の要求を生物の身体に翻訳すること。建築も医療も教育も音楽も実現したい世界のイメージは同じだと思う。そのための個別的にクリアするべき、分業体制としての仕事


でも、応えるべき要求を見誤ったらすべてが歪む

たとえば仕事人としてのわたしの存在理由は「よりよい生活のために身体の調子を変えることを望むひと」。お仕事内容は「お医者さんとお話をすること」
お医者さんにも、患者さんにも、とことん派 とまあまあ派がいて、命を延ばすことが必ずしも正解(応えるべき要求)ではない。

患者さんの家族の気持ちも難しい (たとえば、 これ以上苦しんで欲しくないと思う反面、少しでも長く温かい体温を保って息をしていて欲しいとも思う)


現実主義と機能主義の結びついたミース・ファン・デル・ローエの建築物は、ほんとうはいちばん優しくて、独りよがりではない正しさを持っている気がする


そういう職業人になりたい

アタマがいいの定義 / ピース オブ ケイク (ネタバレあり)

丸一日ダラーーと過ごしても、取り返せるという安心感のある、休み
惰性でプロ野球を観つつ、おじいちゃまの渡邉恒雄批判に適当に頷く。無駄に溢れるぐうたら時間って大事ですね


久しぶりにマンガを読みました。

ピース オブ ケイク。
わたしはわがままだから、恋人が京志郎さんみたいだったらと思うとゾッとする。決定的に頭がよくない。


「アタマのいいひと」は誤りを認める能力が高いと思う
誤りであることを理解できないひとは、ずっと個別的な間違いをし続ける


優先順位を間違え続けると、こうなる
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(ピース オブ ケイク 5巻) 


京志郎さんは優先順位を見誤ったがゆえに志乃ちゃんを傷つけたけど、結局は許されてハッピーに終わる。たしかに京志郎さんは あたたかいし、すごく優しい。情が深くて単純で、とてもいいひとだと思う。でもイヤ


誤りを認める能力が低い、というのは、想像の及ぶ範囲が狭いということでもあると思う。だから無意識にひとを傷つける。他人の言葉を正しく捉えられない可能性も増す。正しく伝わらない可能性を考えるとこわくて何も話せなくなる




わたしはアタマのいいひとたちに恵まれている。同期と恋人のおかげで、とても幸せな新社会人生活を送っています


わたしもアタマよくなりたい。たくさん考えて、やり切ろうと思う


ピース オブ ケイク とてもすき。いろんなことを自覚させられる

新社会人 アウトプットに回す余力がない

この四月から社会人になりました

インプット回路にエネルギーが持って行かれて、日常会話ですらアウトプットが下手です


考えていることを切り取っておいたほうが作業台が広がるのだけれど、切り取るべき部分も見えない


丁寧に手入れしてしまっておくべきか、常に取りやすいところに出しておくべきか、迷ってしまえずにいる感じ



ゴールデンウイークまでに頭が慣れると信じて、毎日作業台を片付ける



楽しい就活⑵自分(死ぬまで共に過ごさねばならない生物)への理解が進んだこと


2つめは、自分の特性への理解が進んだこと



わたしは、家族やバイト先のひとと意見が合わないと本当に苦しい。離れられない(離れる気のない)人間関係だからだと思う
でも、最強に離れられないのは自分



理解できない思想や行動って、とても気味が悪い。それらが嫌悪的なものである場合に、どうしたらそれを減らせるか解らないから怖いし拒絶反応を起こしやすい
(たいていの場合、行動原理が理解できれば譲歩することに対するストレスは激減する。「わたしばかり我慢してる。くやしい」よりも「おっ。うまくいった」が勝る)


自分とうまくやるためにもストレスを減らしたい。自分の行動原理を理解する必要ががある。




就活は自分の経験を振り返って共通項を抽出する毎日だった。おかげで以前と比べて

  • 自分の思想を客観的に見ること
  • 自分の行動原理を自覚すること
が、格段にうまくなった



具体的に言うと

  • どういうひとの元で頑張れるのか
  • 自分が成果を出せたときの方法の傾向
  • 行き詰まったときの自分の攻略パターン
  • どういう思想・哲学がすきか(「LESS is MORE」と「身体が資本」)
  • どんな結果が出るとときめくのか
  • どんなものと出会うとときめくのか
  • 何かに挑戦するときに何を準備しておくとスムーズに始められるか


就活自体のツールとして役立った気付きは太字のもの。特に成果の出し方。

(わたしの場合、自分の学習において効率を高めるために必要な比率は、予習:実践:復習=1:7:2くらい。
洞察的学習よりも試行錯誤学習をしがちで、前者の比率が普段より少し高いときに、いい結果が出る、という自覚)



自分の性質を自覚できてからは、会社と出会うたびにすぐに

  1. 自分が笑顔で頑張れそうな会社
  2. 何か得られそうではある会社
  3. 入ったらつらいだろうなという会社
の3段階にサクッと分けられた。



だから最後まで業界を絞らずに好きに受けられた。自分が上手くやれそうと思う会社ばかり受けたから、ESも面接も残る確率が高かったのだと思う


企業説明会の時期は企業研究というより、会社とたくさん会って、自分の感覚を磨いていた

(女子校育ちの自分にとっては、大学入学後の恋愛も同じような感じだった。たくさん会って、たくさん考えた。共学女子勢は、きっと高校生のうちにこのプロセスを終えていたんだろうな。でも、就活で迷った末にベストと思える選択ができたのと同様、恋愛における選択もこれが最後だと思っている)



死ぬまで付き合っていかなければいけない人間は自分。そいつと上手くやっていくために、知っておくためのいい機会でした

最近、日々の選択から大きな決断まで、自分の決めたことへの後悔が減ったし、少し生きやすくなった気がします