試行錯誤

いろいろ試して、その結果を振り返ります

神頼みの効果(願いの種類に対応した効率的な行動)

自分の努力でどうにかできることに関する神頼みと、自分の努力の範囲の外にあることに関する神頼みは、意味が違うと思う


いま、京都にいます。
参拝という行為が未だに途切れない理由は、叶う人がいるからだと思う。叶わせているのが神なのか自分なのかは神のみぞ知るところですが、
叶わせているのが自分であるなら、という話。



たぶん、努力の及ぶ範囲の願いについては、ポジティブなイメージを思い描くことが成就に重要な意味を果たしている。
(想像できないことは実現させられないからね)


完成図がイメージできるということは、ゴールの方向が見えているということで、だから少しでも動けば前進になる。
「○○になりますように」と願うとき、頭の中にはポジティブなイメージがあるはず。(だから、○○になりませんように、という願い方はよくないと思う)


「自分の力で進められることを願わせてください」と言うのをキモチワルイと思える自立した人間は、努力のブースターになる。「がんばるか!」となる気がする。


自分の努力の及ばない願いについては、(悩んでも仕方ないことについて)ひとつ行為をすることで切り替える効果がある。
何かしたいと思うけれど、(いろいろな制約や優先順位を思うと実質的に)何もできない案件に対して、わたしたちは無意識に罪悪感を覚える。
だから自分の足で絶対的な存在のところに行って、お願いをする。
そして、何かをしたことによって少し気持ちがラクになる。

ひとのために大きな力に祈ることは切実で優しい行為だと思う。
(そういうふうに大事に思って実際に労力を費やして行動をすると、実質的に相手にとって何もプラスにならないとしても、大事に思っていることは伝わるものです。不思議なことに。) 



ちなみに、遠い国の平和について願うことは前者に近いと思う。実質的にできることがある。そして、そのことを願うときに、自分の頭の中には願う前よりも少しソリッドな想像がされている。
つまり、アンテナが立つ。

アンテナが立っていると情報は集まる。(あるいは無関係に見えることすら有機的に結びつく。)知るということは、ほんの僅かではあるかもしれないけれど正しいコミットだと思う。(少なくとも無自覚に邪魔をしないで済む)