気の合う友人と出かけると、考えることと聞きたいこと話したいことがたくさんあってタイヘン。彼女とはいつもキチンとしたセンスのいいお店で美味しいものを食べる。いつでも会う約束がとても楽しみ。
物事の進め方は全然違うけれど、育った環境と、悲しいと思うこと、素敵だと思うことが似ている。
その子の小学校の話。
防犯のために、小学校の校庭の森(木が生い茂るゾーン)が伐採された。
不審者が潜んでてもわからないのは危ないかららしい
わたしは、そこに潜んでいる間に、良心に負けて何もせずに帰る不審者の存在を信じている
法律は複雑になりすぎていると思う。本質的でない決まりが多すぎる。
個別的なルールが多くなると、法の意味よりも、法の抜け穴に意識が持って行かれているような気がする。
性善論は、制約の少ない(自分で考える必要がある)環境で発揮されると思う。
吉田寮のシンプルな暮らし。決まりが少なくて自給自足の文化(畑があったし、ヤギを飼っていた。
食べることもあるらしい)
頭のいい人たちは、少しの大切な決まり(年に一度 部屋の希望を出せること、年3万円の家賃=自治費用の支払い)で、しっかりと暮らしていける(学生としては暮らしていないひとも多数いたけれど)と実感した
コミューンという概念を思い出す
熊野寮も、必要なものを自分たちで作るひとたちが多く住んでいた。
ライブのできる音楽室、バーみたいな部屋、中庭にお手製のピザ釜。
年に一度の集会と、欠席者の晒され具合。
決まりがシンプルであればあるほど、うまくやっていくために良心は鍛えられるし、想像と創造は拡がると思う。
今の日本は、理解しづらい物事に対して不信が強すぎる。何を怖がっているのだろうと思う。何か攻撃される予感を持つほどの負い目があるのかな。格差社会に対する罪悪感かしら。
とにかく、防犯とか過度な衛生への配慮によって、自然や信頼で成り立つ人間関係が減ることをとても寂しく思う。
人を殺してはいけない、とか、人を悲しませる冗談・嘘はよくない、とか、
そういう基本が身に染みてない人たちによる前例に倣っただけの規則は、切実な問題を抱えたひとたちに届かない。
(友人は地元も大学も違うけれど、とっても大切。彼女と話すと頭の中がまとまる。わたしも彼女のような安らかな気持ちで人のことを好きになりたいと思う。)