学びの基本は覚えることだとおもう
「ネットで調べれば出てくる。覚えることに意味ない」って言うひとに限って検索が下手なことが多いとおもう
覚えていないと、自分の頭の中で、物事を考えることができない
と思いつつ、わたしはうろ覚えなことが多い。検索し直す手間がかかる。基礎に関しては正しく覚えることを重視したいと思う
人間だものって深い言葉 / 正しい期待を知る
(いま世界は不安定で、欧米もアジアも、どこも余裕がなくなったから、甘ったれな日本のままではこれからは何も聞き入れてもらえなくなる)
安倍さんが悪用すると思って安倍さんを批判するひとがたくさんいる、誰がとか関係なく、悪用できない形に直すことが大切なのではないかしらね
そうすれば安倍さんも気持ちよく代案を探せるような気がする。真っ向から否定をされたらゼロか100か二択になる。
政治家も学校の先生もお医者さんも不動産仲介のお姉さんもデパートの店員さんもホテルのスタッフさんもタクシーのおじさんも、みんな職業人の前に人間で、常に一定の判断を下す機械ではない。(このお客さん態度ひどいなあ・と思ったら義務よりプラスのサービスはしない)
のに、そうであるべきと無意識に決め付けているから苦しくなる
すきなひとたちから 期待されたいけど、決めつけられたくない
他人に対しても 相手のための期待はポジティブに働くことも多いけど、「こうして欲しい!」と求めるのはエゴで よくない
自分への期待と他人への期待を定期的に更新する。最新の正しい期待ってたいせつ
自戒をこめて
A5サイズのノート / 何かを学ぶ・取り入れる方法
最近、営業職として配属されました
何であっても、新しいことが始まるというのはとてもときめく
何かが無くなる・終わるということは、その分のスペース(空容量)が生まれるということ
それを無駄に使いたくない。余地がある分、惰性で何かが入り込んできやすい
二次元に手書きで情報を載せると、自分のいままでの知識や経験が結びつこうとする
有機結合に似ている
媒体としての見開きA4の紙・黒と青ボールペン
わたしは停滞したくない、常に変わっていきたい。自分の中に何かを蓄積させたくない。何かを取り入れるときには、自分のフィルターを通して形を変えて、自分の一部にしたい
形を変えるためには、自分の身体を使ったアナログな方法がわたしにとってはいちばん効率的なようです
定年まで彼が上を目指し続けるとして / 性質と役割とそれぞれの成熟
22〜25歳で入社して60歳まで、35年間働くとして、彼がどのポジションまで登れるか
現在、目指している/いないを別として、性質として多かれ少なかれフィックスしている、と思う
村長と、村人Aと、村人B/C/D…は、それぞれの役割の中でのレベルアップは努力によってできる
ただ、役割を越えることができるかは、性質によるところも大きい
熱意と ある種の愛を持って自身がコミットしながら周りの人間を巻き込んでいけるひとは村人の中で信頼された状態で協働的リーダーになれる
言葉や行動に大きな影響力を携えてドンと構えて、周りに影響されずに継続的に成果を出せるひとは大きな裁量を与えられて指示者として信頼される
実施者としてのリーダーと、計画立案をするリーダーは、結構、違う
そういうふうに、同期を見る。好き嫌いではなく、他人を知るひとつの方法として
この人が頑張ったら、どういうところで活躍するかしら、どういう人たちの応援をもらえるかしら
自分はどう見えているか
自分の性質を活かしてレベルアップする、あるいは、枠を越えるには、どういうタイミングで成果を出し、どういう人たちと、どう関わっていくか。見えてくるものがある
村長=計画立案・マネジメント
村人A=計画実施責任者
村人B/C/D…=実施者
計画を実現させるためには全員必要
原因療法と対症療法 / 本質と現象
本質と現象の関係は、原因療法と対症療法に似ている。
原因療法
病気そのものの真の原因となっているものを治したり取り除くことなど直接働きかけることで治す
対症療法
病気そのものの原因を取り除くのではなく、病気がもたらす症状や苦痛を軽減することを目的とする治療法
(あと補充療法・予防療法がある)
ガンで言ったら摘出は原因療法、モルヒネは対症療法
原因療法は一部を治すために身体全体に不要な負担をかけることも多いし、対症療法も柔軟に使っていくべきだけど、バランスは見極めなくてはならない。
身体全体に回って手遅れになる前に根絶させなきゃいけないやつもあるし、ちょっと我慢すれば自分自身の免疫でなんとかなるやつもある(なるべくその方がいい)。
なにか問題が起こっているときに、本質にアプローチするか、現象にアプローチするか、と似ていると思う。
憲法改正というのは国の方向性の問題について、本質へのアプローチだから、ハイリスクハイリターンだし、全体への影響が生まれる。
でも、対症療法で凌ごうとして 法律が増えすぎている、し、凌げたことに調子に乗って 国外への責任を拡げすぎているからこそ、その決断の影響は大きくなっている。
予後不良になる確率が上がっている。
過去のことはもう仕方ないから成人を業界のバランスとりながら10%ずつに分けて、毎月10%ずつ仕事休ませて、国の現状について勉強してテストさせて(点によって下限10万上限40万とか渡す制度にでもして)、それで来年の5月3日にでも直接民主制で改正すればいいと思う
本質について/ミース・ファン・デル・ローエ
この世で最も美しいと思うのは、レイクショア アパートメントという建物です
わたしはミース・ファン・デル・ローエというひとの建築哲学を愛している
モノを持ちたくないのも、本当に大切なものを自覚したいのも、そのひとの影響
LESS IS MORE
God is in the details
彼のつくった全ての建築物から一貫して感じられる。建築物たちは似ているわけではなく、用途や国に合わせた引き算とこだわりがある。無駄がないのに、豊かで美しい
「形はわれわれの目的ではなく結果として出てくるものである。形それ自身単独では存在しない。形が目的であるということは形式主義である。」
(1923 建築と形に警告 より)
「建築とはその時代の要求を空間に翻訳することである。」
「建築の本質を疑問視することは決定的に重要なことである。」
(1924 建築とその時代 より)
すべてのことに当てはまると思う。物事の本質を捉えることは難しいけれど、本質に近いところに課題を見つけることができたら、その解決はより広い範囲に影響する。
形式主義というのは、応用が効かない
仕事の違いは、要求を何に翻訳するかの違いと言える
たとえば医療は、時代の要求を生物の身体に翻訳すること。建築も医療も教育も音楽も実現したい世界のイメージは同じだと思う。そのための個別的にクリアするべき、分業体制としての仕事
でも、応えるべき要求を見誤ったらすべてが歪む
たとえば仕事人としてのわたしの存在理由は「よりよい生活のために身体の調子を変えることを望むひと」。お仕事内容は「お医者さんとお話をすること」
お医者さんにも、患者さんにも、とことん派 とまあまあ派がいて、命を延ばすことが必ずしも正解(応えるべき要求)ではない。
患者さんの家族の気持ちも難しい (たとえば、 これ以上苦しんで欲しくないと思う反面、少しでも長く温かい体温を保って息をしていて欲しいとも思う)
現実主義と機能主義の結びついたミース・ファン・デル・ローエの建築物は、ほんとうはいちばん優しくて、独りよがりではない正しさを持っている気がする
そういう職業人になりたい
アタマがいいの定義 / ピース オブ ケイク (ネタバレあり)
丸一日ダラーーと過ごしても、取り返せるという安心感のある、休み
久しぶりにマンガを読みました。
ピース オブ ケイク。
わたしはわがままだから、恋人が京志郎さんみたいだったらと思うとゾッとする。決定的に頭がよくない。「アタマのいいひと」は誤りを認める能力が高いと思う
誤りであることを理解できないひとは、ずっと個別的な間違いをし続ける
優先順位を間違え続けると、こうなる
(ピース オブ ケイク 5巻)
京志郎さんは優先順位を見誤ったがゆえに志乃ちゃんを傷つけたけど、結局は許されてハッピーに終わる。たしかに京志郎さんは あたたかいし、すごく優しい。情が深くて単純で、とてもいいひとだと思う。でもイヤ
誤りを認める能力が低い、というのは、想像の及ぶ範囲が狭いということでもあると思う。だから無意識にひとを傷つける。他人の言葉を正しく捉えられない可能性も増す。正しく伝わらない可能性を考えるとこわくて何も話せなくなる
わたしはアタマのいいひとたちに恵まれている。同期と恋人のおかげで、とても幸せな新社会人生活を送っています
わたしもアタマよくなりたい。たくさん考えて、やり切ろうと思う
ピース オブ ケイク とてもすき。いろんなことを自覚させられる